A〜Eは、中国の歴史上の出来事に関する記述であるが、それぞれを古いものから年代順に並べたものとして、安当なのはどれか。
A. 王莽の政治は実情に合わず。赤眉の乱にはじまる全国的な農民反乱と豪族の反抗のなかで、新は滅んだ。
B. 始皇帝の死後、陳勝・呉広の農民反乱をきっかけに各地で反乱が起こり、秦は統一後わずか15年で滅んだ。
C. 晋は、呉を滅ばして中国を続一したが、一族が帝位を争う八王の乱で混乱し、匈奴によって滅ぼされた。
D. 外戚や宦官、官僚のあいだで争いがおこっていた後漢は、黄巾の乱が起こると各地で豪族らが割拠し滅亡した。
E. 塩の密売人がおこした黄巣の乱は唐の全土に広まり、これに対応できない唐は、節度使の朱全忠によって滅ぼされた。
1 A-C-B-D-E
2 A-C-B-E-D
3 B-A-C-E-D
4 B-A-D-C-E
5 B-C-D-A-E
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正答 4
解説
A: 新の減亡は23年である。王莽は漢(前漢) の外戚として実権を握り、紀元8年に漢を滅ぼして新を建国した。赤眉の乱(18〜27年) をきっかけに各地で 反乱が起き、王莽は反乱軍に殺されて新は滅亡した。
B: 秦の減亡は紀元前206年である。秦王政は、紀元前221年に中国を統一すると、自ら始皇帝を名乗り、中央集権化を推し進めた。しかし、始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱(前209年)をきっかけに各地で反乱が起き、その中から頭角を現した項羽と劉邦により秦は滅ぼされた。
C: 晋(西晋,265〜316年)が匈奴により滅ぼされたのは316年である。魏の将軍 司馬 炎は、265年に魏の皇帝から禅譲されて晋を建国し、280年に呉を滅ぽして中国を統一した。八王の乱(290〜306年)は、司馬炎(武帝)が各地に王として分封した一族による皇位継承を巡る争いである。晋は316年に匈奴によって、滅ぼされた。
D: 後漢(25〜220年)の滅亡は220年である。漢は新の滅亡後、漢の一族の劉秀(光武帝)により再興(後漢)されたが、宦官や外戚との対立、宦官による官僚・学者への弾圧など党派争いが繰り返され混乱した。黄巾の乱(184年)は、張角が起こした農民反乱で、黄色の布を目印とした。後漢は、220年、各地に起こった群雄の中から頭角を現した曹操の子曹丕により滅ぼされ、曹丕は魏を建国した。
E: 唐(618〜907年)の滅は907年である。安史の乱(755〜763年)をきっかけに唐は衰退に向かっていたが、黄楽の乱 (875〜884年)をきっかけに、節度使 の朱全忠によって滅ぼされた。
したがって、出来事を古い順に並べるとB―A一D―C一Eである。
出典 実務教育出版「地方初級教養試験過去問350」より
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